放射線・被曝への不安による分断を埋める――ある家族の物語
さとしん
2018年2月6日
放射線・被曝について、いくら語り合っても分かり合えない人がいる――。
福島の問題に関わったことがある多くの人が、そんな経験を持っているでしょう。なかには、その分断が友人との、あるいは夫婦・家族の別離につながってしまった例もあります。
いくら語り合っても分かり合えない。それでも、諦めずに分かり合える部分をつくっていくにはどうするのか。
家族の中で分断を埋めるために動き、一歩ずつ前進してきた人がいます。その状況をTwitter上で定期的に報告してきた「さとしん」(https://twitter.com/satoshin_23)さん。福島県いわき市出身。結婚を機に東京から福島市へ転居して生活し、お子さんも生まれました。しかし、3.11後、関西に避難した妻子と別居し、東京で働いています。
「さとしん」さんは、7年目にしてようやく状況が良い方向に向かってきたと言います。何がきっかけだったのか、ご寄稿いただきました。
私の妻はかなりの放射線忌避者でした。過去形にしたのは、今ではもうだいぶその状態からは脱したと思えるからです。周りの方々は、皆良かったねと言ってくださるけれど、今さらと言う人もいるかもしれません。
震災当時、私が住んでいたのは福島市でした。事故直後はいわき市などよりも原発からは遠かったにも関わらず、なぜか空間線量が高かったことをよく覚えています。そういったことや周囲の勧めもあって、妻子はかなり早い時期に避難しました。いわゆる自主避難者です。とりあえず数年程度だろうと思った別居生活は今もまだ続いています。
たしか、震災から3年近く経った頃だったと思いますが、自主避難から戻ってきた母親たちと福島市で話す機会がありました。そこに集まったのは、避難先から帰ってきたけれど、まだまだ不安が多く、夫や親や避難しなかった周囲の人たちとの放射線に対する意識の差を気にしていた方々でした。
その場で彼女たちは自分たちが不安に思うということを口々に話しました。洗濯物を外に干すのが不安、水道水を飲むのが不安、子どもが砂遊びをするのが、公園で遊ぶのが…。その当時よくあった話だと思います。彼女たちは「話しても仕方がない、何を言ってもわかってもらえない」と嘆く。
私の妻子がまだ避難中だと言うと、「どうして今でも自主避難を認めているんですか?」と訊かれました。私は「認めてる訳じゃないですよ。ペットじゃないんだし、紐を付けて引っ張って連れて帰ってくるわけにもいかない。納得してくれないと、福島で一緒に暮らせないと思うんです。」と答えました。
どんなかたちであれ、判断する自分自身が納得して戻らなければきっと後悔するだろう。目の前にいる彼女たちがまさにそうだったのです。それ以上いったい何を言えばいいのだろう…。
避難先で妻は福島県どころか東日本のものは心配で食べたくない、だから、関西にいると普通に食べるものは地元産なので安心なのだと。そして、福島県で甲状腺がんと診断された子どもたちが多く見つかったのも原発事故の放射線のせいだと思っているようでした。
震災から3年が過ぎた頃から、具体的にいつ福島に帰るかを話すようになりましたが、食べ物の話はもちろん、外部被曝の心配もまだまだ残っていて、帰還する気はまったくないようでした。
避難先で自主避難者たちを支援する多くの方々はみな、避難は子どものため、保養も福島の子どもたちのためだと信じて疑わない方々ばかりです。妻も含め避難先で出会った方々は国や県などの話はあまり信用していないように見えました。
説得するような話をすれば言い争いになる。「あなたの話は、国や役所が言っていることみたいで信用できない。」私はこの状態では福島への帰還を説得するのは無理だと悟り、その後は私からこの話題について話すことは控えるようになりました。
そんな状態だった妻と、福島についての話の内容が変わってきたのは、一昨年くらいからでしょうか。きっかけは避難者が福島の方々と交流を持つというツアーに行くようになってからです。
これは、県外のさまざまな避難者支援団体が県などからの補助金を使い、福島県の現状を知るためのツアーを開催しているものです。自主かどうかを問わず、避難者は福島までの交通費を負担して貰える代わりに、福島では地元の方々と交流したり話を聞くような催しに参加します。こういったイベントに参加するようになってからは、そこで聞いたことや感じたことを毎回話すようになりました。
たとえば、福島で子どものために通学路の空間線量などを測る方々がいました。そこではこのような話を聞いたそうです。
「通学路には、ホットスポットがまだまだあるんです。たとえば、ある側溝の近くだと1.xx μSv/h もあったんですよ」「街路樹の樹皮を測ると、1万Bq/kg以上検出される例は、今でもあるんです。」
そんな話を聞いたら黙っている訳にもいかないので、このように話しました。
「もちろん、線量は低い方がいいよね。でも、まぁ子どもたちもずっとその場所で遊ばないだろうし、心配なら近づかないようにすればいいよね。」「樹皮って、木の一番外側だけを集めてくれば、そりゃ放射性物質だって多くあるかもしれないだろうね。そもそもその木の皮なんて食べないじゃない? それって、数字を高く見せようとしているだけじゃないかなぁ。」
「でも…」と言われても、話を終わらせる。続ければおそらく無駄な言い争いが起きるだけだと思うからです。
除染プラザで話を聞いたこともあったようだけど、それよりも福島で活動している(どちらかといえば危険派の)方の話のほうが信用できるといった感想も聞きました。やはり公的機関の話だと半信半疑なのかもしれない。
あるとき、福島で有機野菜をつくる農家さんの話を聞いたそうです。おそらくカリウムの話も聞いたのでしょう。ちゃんとNDの有機野菜がつくられているのだと聞いて喜んでいました。一緒に参加した自主避難者の人たちも、その農家の方の野菜なら安心して食べられると言ったそうです。それを聞いて話を繋げました。「コメも野菜も、福島ではほとんどすべてNDだよ。気にした方が良いのは、山菜や野生のキノコやイノシシとかだけだろうね。」
今まで私の話を聞こうともしなかった妻は、現地の方々の話を聞いたことで放射能(放射線)についての見方が少し変わったようでした。公的な機関や組織の方々の話ではなく、実際に福島に暮らす現地の方々の話だと信用できたのかもしれません。
もちろん、今でも食べ物について多少は心配しているし、おそらく今でもNDじゃなければ食べたいと思わないでしょう。しかし、検査でNDであれば福島県産でも大丈夫、問題ないと思えるようになったことは本当によかったと思っています。
最近のことですが、甲状腺がんの話題になったことがありました。ちなみに、うちの子は一度受診しましたが、検査では何も見つかりませんでした。
「(甲状腺がんが)原発事故の放射能のせいじゃないなら、どうして福島ではあんなにたくさん見つかって、手術した子どもが大勢いるの?」と訊かれました。もちろん、妻はチェルノブイリの話は知っています。そっち方面の話は周りからよく聞いているからです。
だから、まずは甲状腺がんとはどんな病気なのか、事故直後の福島ではどういった対策が取られたのか、検査の結果をどう解釈するべきかなど話しました。そして、このまま検査を続けるかぎり、おそらく必要のなかった手術をする子どもが増え続けるであろうことを話すと、「じゃぁ、もう検査は受けないほうがいいんだね」と言いました。私はこう続けました。「もちろん、何か症状があれば検査する必要はあるだろうけどね。」
これで私の心配事がひとつ減りました。
相手の気持ちを尊重すること、押し付けにならないようにすることが大事なのだと思います。私がそう思ったきっかけのひとつは、先にあげた福島市で帰還した母親たちと話したことですが、その後強く意識することになったのは松本春野さんの言葉でした。
彼女が「ふくしまからきた子 そつぎょう」を出版されたときには、いろいろな物議を醸しましたが、そんななかでの彼女の言葉に「各々の選択を尊重する」という言葉がありました。それぞれの選択を否定しないという、対人関係ではとても大事なことを意識することが、この福島の放射線の問題を考えるためには本当に必要なことなのだと私自身、とても納得して思えたのです。否定するだけではおそらく何も前には進まない。実際にそれまでの私自身がそうだったのですから。
以前はいろんな記事や本などを示してこちらから一生懸命話していましたが、そういったアプローチをすることはやめました。もし、何か訊かれた場合はきちんと答えるようにしようと。そして今でもそうしています。
最近読んだ『しあわせになるための「福島差別」論』(かもがわ出版)の帯にはこう書かれています。
「1、それぞれの選択をお互いに尊重する。2、科学的な議論の土俵を共有する。めざすのは、福島の人たちの「しあわせ」」
科学的な議論の前に、まず念頭に置くべきことは、それぞれの異なった考え方や置かれた立場、境遇などを慮ることなのでしょう。私は、帯の一番目にこの言葉をもってきてくれたことをとても感謝しています。
私たち家族が今後どうするのかは、まだ何も決まってはいません。おそらく、妻もまだいろいろと不安なことはあるのかもしれない。しかし、この1、2年で放射線忌避はだいぶ改善したと思っています。
今年の正月は福島で地場野菜を使った妻の雑煮を食べました。震災のあった年以来、7年ぶりのことでした。
さとしん Twitter @satoshin_23
いわき市出身。職業はIT系技術職。大学卒業後からずっと東京で働いていましたが結婚を機に福島市に移住。妻子の自主避難後にしばらく福島市で一人暮らしした後、仕事の都合もあり現在は東京に戻っています。震災と原発事故を経て、故郷を離れてからの方が福島を想う気持ちが強くなった気がしています。